プロフィール
幼少期
ボクが生まれたのは1970年代です。
街の中心部に川が流れ、近場に有名な社寺仏閣がある街で育ちました。周りが山に囲まれていましたので、夏はすっごく蒸し暑かったのを覚えています。
父親は公務員で当時は宿舎住まいでした。同じ年代の子供たちが多く、暇さえあれば、宿舎のだだっ広い敷地の中で、鬼ごっこや、サッカー、野球…よく友達の家の窓ガラスを割って怒られていました。
小学校の頃のボクは、けんか、けんかの毎日。なんか妙な正義感みたいなのがあったんだと思います。ボクの親と相手の親にはたくさん迷惑かけていました(汗)。
小学校3年生くらいでしょうか。「ファミコン」が世にリリースされて、ファミコンを持っている友だちは、それはもう「ヒーロー」のような時代。
ボクもそのあたりは、わりとお調子者でしたので、ファミコンを買った友だちに急接近して、その子の家に入り浸ってひたすらスパーマリオに打ち込みました。
その後、ファミコンに打ち込みまくった小学校3年生と4年生でしたが、実はたったの2年でボクのファミコン熱は見事に冷めてしまいました。
そんな中、小学校5年生の時に、たまたまいとこのお姉ちゃんから「スケートボード」をもらうことになりました。当時はジャニーズの光GENJIがローラースケートをやっているのをテレビで見ていましたが、実はスケボーなんて知りませんでた。
しかし、スケボーを手にした瞬間、「ビリビリ」っと脳みそに電気が走ったんです。
その日から、朝から晩までスケボーに明け暮れる毎日が始まりました。
スケボーに没頭した中学時代
中学時代はまさにスケボー少年でした。
当時の服装は、超オーバーサイズのTシャツにダボダボのパンツ、足元はコンバースオールスターかバンズ、聞く曲はパンクロックの「スーサイダル・テンデンシーズ」。
トニー・ホーク、クリスチャン・ホソイ、スティーブ・キャバレロだの、アメリカのトップスケーターたちに夢中で、「ラジカルスケートブック」っていう雑誌を毎日穴が開くほど見ていました。
自宅の近くにたまたまお店があって、そこに出入りしていたんですけど、アメリカのトップスケーターがボク街に来るっていうのを聞いて、学校を休んでスケートパークまで行ったのを覚えています。
もうアタマの中はスケボーで満開でした(笑)
グレようとした高校時代
ボクが通っていた高校は公立で、普通課・特進課・商業課・夜間部があって、私服OK、校門開けっ放し、というホントに自由というか緩い感じでした。
部活は、夏にサッカー部、冬にスキー部というこれまたイレギュラーなボクでした。
スキーは父親が雪なし県出身であるにも関わらず、若い時からボランティアでスキー教師をしていたので、ボクも物心ついた時にはスキーを始めていたんです。
今から思えばそんなに裕福な家庭ではなかったのによくやらせてくれたな~って。ありがとう、オヤジ(笑)
それで高校生活の毎日はどんな感じだったかというと、やっぱりやっちゃうんです。マージャン、パチンコ、バイク、たばこ、酒。すべてデビューしました。
高校デビューっていうやつです。
通学は原付バイク、校門が開けっ放しでしたので、昼休みは川の橋の下で一服、放課後は友だちの喫茶店でマージャン、部活前にパチンコ、とそれなりの毎日でした。
そのうち幼馴染が暴走族になって、ボクもビビリながらロケットカウルのついた「ゼファー」というバイクの後ろにも乗せてもらっていました。
けどね、結局グレられなかったんですよ。これだけ生意気ぶってて、格好悪いでしょ?
うちの父親が厳格な人だったんで、どこかでブレーキをかけてしまうんですよ。これ以上やったらヤバイな…って。
それで、友だちから「今日も走るぜ!」って言われても「今日は別のツレとツルむからまたな!」って言ってヒヤヒヤしながら逃げてました。この頃は必死で「やんちゃ」な感じを装っていた感じですね。
学校の勉強の方は、「やんちゃ」な友だちに見つからないように「中の上」くらいのレベルは保っていました。どこかで「保険」をとっておきたかったんでしょうね。当時のボクはホントに半端なヤツでした。
けど半端な自分に嫌気がさしてきてたのもちょうどこの頃でしょうか、バイクもパチンコもスケボーもだんだんとやらなくなりました。何か「自分らしい生き方」を探していたんだと思います。
転機は高校2年生の秋の三者面談でした。
「このままでは就職の道しかない」と担任の先生に言われました。
ボクは何としても働きたくなかったので、「オレ大学に行きたい、何とか行きたい」と苦しまぎれに答えました。
「そうしたらオマエ、学校の勉強をとにかくやれ。それで評定平均を上げて何とか推薦で行け。今からならまだ間に合うぞ」と。
そんな方法があるのか…という感じでした。
「こうなれば、何としてもやるしかない!」と思って、学校の勉強を夢中で頑張ったんです。中間テストと期末テストに関わらず、とにかく毎日自宅に帰ってから夜中の2時くらいまで勉強しました。
それが功を奏してか、何と地元のそこそこ有名な大学に合格。うれしかったです、ホントに…
何がうれしいって「この先4年間は働かなくてもいい」保障を手に入れたからです。
ホントにサイテーです。
今でもそうなんですけど、ボクは基本「好きなことして生きていきたい」人間なんです。そんな人間だとこの頃から確信してました。
でもどうやったらそういう生き方ができるのか?18歳のボクにそんなこと知る由もありませんでした。
そんなことをモンモンと思いながらのキャンパスライフが始まりました。
大学時代は部活一色
大学は一応経済学部でしたが、経済学を学んだ記憶はありません(笑)部活一色でした。
体育会系のスキー部に入り、トレーニングもそれなりに厳しく夏場は走り込みとウェイトトレーニングをしていました。
この時ウェイトトレーニングにハマッたんですね。ハマったというより、自らハマりにいったというのが正確でしょうか?
理由は簡単。筋肉を付けて身体を大きくしたら、強そうに見えるし、女の子にモテるに違いない。
あ~もうイタい奴でした。どうぞ笑ってください。もうホントに勘違い野朗でした。
スキーの成績はというと、スキーではまあまあ強豪大学だったので、部内選考に漏れて万年補欠でした。
そりゃあ、幼い頃からやっていたといっても敵わないですよ、雪国出身の同僚たちには。
そんな部活一色のキャンパスライフと平行して「就職」という現実が突きつけられたのもこの時期です。
ボクは父親が公務員でしたので、反面教師といいますかとにかく「サラリーマン」にはなりたくなかったんです。月曜日から金曜日まであくせく働いて土日だけ休み、そんな人生何が楽しいって。
今でこそ、「フリーランス」というものが当たり前の世の中になってきましたが、当時はまだまだそのような思考を持った若者は周りにはいませんでした。
だから自分にもそういう考えは微塵もなく、いずれどこかで働かないといけないことは分かっていました。でも、自分に合った「働き方」って何なのか、全く見つけられなかったんですね。「就職する」という現実も認めたくなかったですから。
この時部活の同僚が突然、「消防士の試験受ける」って言い出したんです。
「えっ、本気?」って。
時代は就職氷河期の真っ只中。もう超氷河期。公務員なんて恐ろしいほどの人気で、ましてや「消防士」なんて倍率40倍とか50倍とかの世界。
そんなのなれるはずがないと、自分では見向きもしませんでした。
でもこの時、内心「しまったな…」と思ったのも確かです。
それは知り合いに消防士がひとりいて、「消防士は大変だけど、それなりに休みもあってなかなかいいよ!」って言っていたのを思い出したからです。
でも時すでに遅しでした。
大学4回生の秋にあった消防士の試験をその同僚と受けに行ったんですが、やっぱりダメ、受かる気がしない。
その同僚も結局ダメだったんですが、「オレ、就職浪人して来年また受けるから!卒業する前に専門学校行くことに決めた!」って言ったんです。
ボクの人生の中で「浪人」なんてしたことなかったし、そんなの「悪」だと思っていました。
その同僚には「頑張れよ…」と言ってボクは消防士への道は諦めたのでした。
さてそれならどうする?
ということで、サラリーマン以外で簡単に就職できるところ。
「飲食業界」への就職に焦点を絞り、見事地元企業の某有名中華系レストランに就職することができたのでした。
今から思えば、この企業は毎年200人程度採用し、3年後には30人程度しか残っていないとう超ブラック企業だったんですね。そりゃ簡単に就職できますよね(笑)
ハイパーブラック企業に就職
大学卒業前の1月頃、研修のレジュメが自宅に届き目を通していました。
「実店舗での研修3日間 → 施設での研修7日間 → ハワイ研修4日間」と書いてありました。
ハワイ研修…何だこりゃ!ハワイ旅行…!
やった~と思っていたのを覚えています。
その前にある地獄の研修のことなんか頭からぶっ飛んでいました。
とうとう研修初日がやってきました。
ボクは自宅に近い店舗での研修でした。
いきなりでした。ヤンキーのお兄さんが更衣室に入ってきて、「とりあえず着替えて厨房きてくれや!」って。
でもどうみても年下なんです。実はその人、店のチーフだったんですけど、この瞬間から地獄の日々が始まることになったんですね。
そのヤンキーチーフは言うんです。「今から餃子の巻き方教えるから、3日後には、10分で100個巻いてもらうからな!」って。
ずっと厨房でストップウォッチを持っているんですよ。しかもヤンキーがね。ビビルるでしょ?こっちもずっと見られているもんだから手が震えてました(笑)
「オマエ、手震えてるよ~、ハハハ(笑)」って。
もうこの瞬間、就職先を見誤ったことを悟りました。
それでも何とか3日間の地獄の現地研修を乗り切りました。
もうすでに疲れ切っていたもののホッとする間もなく、4日目からは施設研修ということで静岡県にある「管理者養成学校」ていう何とも怪しい学校に収監されました。
着いた瞬間、ここでもヤバいところに来た、って思いました。
オ○ム真理教の信者のような服を着た、鬼の形相をした大柄な男どもがボク達を待っていました。
ボク達もすぐさま、その「信者の服」に着替えさせられ、訳が分からないままいきなり、激しい体操を教え込まれました。
歩くにも、飯を食べるにも、休憩するにも、寝るにもすべて集団で固まって行動させられました。
毎日、ひたすらお辞儀をする、ひたすら歌を大声で歌う、ひたすら文章を大声で音読する、40キロの夜間行進、挙句の果てに駅前での歌唱テスト、ともう散々なところでした。
今でも思い出すと何だかゾっとしますね。こんなの好きな経営者がいるもんなんですね。もうムリ…って思いました。
それでもなんとか7日間が終わり、ようやく「シャバ」に出てきた感じでした。
そのあと、ハワイ研修という名の社員旅行へ行き、疲れを癒す夢のような4日間を過ごしました。
良かったのはそれだけですかね。
そしてとうとう、配属先の店で働く日が来ました。初日は気合十分だったんです、色々覚えようって。
けどねどこにでもいるんですよ、鬼上司が。厨房でお玉を振り回していました、ホントに…
それでボクのデキが悪いもんだから、お玉でコツコツ叩くんですよ、頭を。
「スイマセン!頑張ります!」って…気の利いた返しもできずにずっと苦しみました。
それでもいい先輩が一人いてその人によく相談していました。
毎日お店に入るのが朝の7時30分、休憩はほとんどなく、お店が終わって自宅に帰るのが深夜の2時!それでもまっすぐ帰れたらいいものの、先輩に捕まると明け方の5時くらいまで近くの居酒屋で飲み会、その2時間後また出勤みたいな(笑)
毎月の給料の手取りはちょうど20万円くらいだったのを覚えています。
働き始めて3ヶ月目、何かおかしいんですよ体調が。うまく言えないんですけど、いつもボーっとしているというか。なので注意力がなくミスも多くなって余計に怒られる状態でした。
5カ月目くらいでしょうか?ある朝布団から出られなくなり、初めて仕事を休んだんです。
職場から「オマエ、遅刻だぞ!何してるんだ!」と電話がかかってきましたが、「熱があって…」とだけ言って電話を切りました。
頭の中では「辞めたい、仕事辞めたい、けど、就職して半年で辞めるなんてできない。しかも大学まで行かせてくれた親に何て言えばいいのか…」
そんなことをず~っと考えていたのを覚えています。
今から思えば、精神的にはとっくに限界を超えていました。
退職から転職失敗、そして消防士へ
無断欠勤して3日目。内心、仕事を辞めるタイミングを考えていました。
また職場から電話がありました。「とりあえず出てこい!」って。
ボクはもうムリでした。無言で電話を切り、そのまま本社に向いました、退職届を片手に…
本社では部長が待っていました。
「まあ、座れ。どうしたんだ?店長から聞いてたけど、無断欠勤してるんだって?仕事がしんどいのか?けど今ここで辞めても、次に行くところはないぞ。どこの飲食業界も労働条件はだいたいこんなものだぞ。次、決まってるのか?」
ボクは「決まっていません。けどもう職場には戻れません。これ、受けっとってください。」
その後2時間くらい引き止められましたが、最終的には退職届を受け取ってもらうことができたのでした。その日からボクは晴れて、人生初のプータローとなりました。
川沿いを歩いて自宅に戻るボクはもう、もぬけの殻状態でした。
次の日からは、どうしようもない不安が襲ってきました。「この先、転職できるのかな…」
とりあえず気を紛らわすために、転職情報誌を買いぼんやりと見ていたのを覚えています。
やみくもに何社か面接を受け、ある会社に転職したものの4カ月で退職。
もう人生どん底でした。
分からないんです、自分が何をしたいのか。ゴールのないマラソンをしているようでした。
退職して1カ月後「たまたま」というか「すんごいタイミング」というか、消防士を目指して就職浪人していた大学の同僚から電話がかかってきたんです。「消防士の試験受かった!」って。
それを聞いて正直ショックでした。「そうなんだ…」って…4おめでとうなんて言いたくなかった。
もうジェラシーです。だって同僚は夢に向かって進んでいるのに、自分は何なんだって。こんなところで足踏みしてしまってる自分がくやしかったんですね。
この時思ったんです。自分も「やるしかない」って。
ここからが早かったですね。次の日、とどこおっていた失業保険の手続きをするためハローワークへ行きました。
担当の方から、タイムカードの記録を聞かれましたが、「いえ、タイムカードはなかったんです」と言いました。
「え?ないんですか~、困りましたね~」って。
タイムカードとか時間管理された記録がないと実働時間を元にした計算ができないらしいんです。
仕方なく、退職先から渡された文書をもとに手続きを薦めてもらいました。
数日後には公務員試験の専門学校に入学、11月くらいからは毎日10時間くらい勉強しました。この時が人生で一番勉強したのは言うまでもないです。
もう死に物狂いでした。
そして年が明けた6月、東京消防庁の試験が地元でも行われるということで、受験、7月には2類という枠で合格通知が自宅に届きました。
半分うれしくて半分うれしくなかったですね。
なぜって?東京に行く自分が想像できなかったから。
東京で消防士になるということは、東京で骨を埋めるということ。とにかく地元愛が強かったボクにはどうしても飲み込めませんでした。
そうこうしているうちに地元周辺や遠方の消防の試験がありました。
7つの消防本部の試験を受けて、1次試験にはすべて通ったものの、結局すべて不合格、この時ボクの東京行きが決定したのでした。
東京時代
何せ東京に行ったのは中学校の修学旅行以来なため、ほとんど「お登りさん」状態。
とりあえず自分の方言が通じるのかな…って思いながら、改札の駅員さんに、「笹塚駅まで行きたいんですけど・・・」って聞くと、本場の標準語で「中央線で新宿駅まで乗車して頂いて、京王線に乗り換えてくださいね。」って丁寧に教えてくれました。
お~東京弁、っていちいち驚いてました(笑)
笹塚駅に着いて消防学校を目指しました。玉川上水緑道という桜並木の道を歩きながら消防学校に到着。
東京消防庁の消防学校って渋谷区にあるんですよね。田舎者にとっては大都会な感じでした。
次の日が入学式だったので、その日は笹塚駅前のビジネスホテルへ向かいました。
ふと見上げると新宿副都心の東京都庁がそびえ立っていて、長渕剛の名曲「とんぼ」の歌詞「花の都大東京~」が脳みその中をリピートしまくっていたのは言うまでもありません。
東京消防庁消防学校
23歳の春、消防学校での生活が始まりました。 入学式ではだだっ広い講堂で消防学校長が挨拶。
消防学校に入学した学生のことを「初任科生」っていうんですけど、その数なんと600人!その600人での消防学校生活がスタートしました。
東京消防庁ではランク付けがあって、1類・2類・3類の3つの区分。
学校で着るジャージの色が違っていました。ボクは2類採用でしたので紺色のジャージでした。まあ、ユニークなジャージで昭和初期にタイムスリップしたかのようでした。
ボクたちが住む寮は訓練場とは別の敷地にあって、なんと地下通路で繋げられていました。
朝6時起床、一列に並んで訓練場へ。
国旗と学校旗の掲揚、体操、鬼教官の点呼があり、すぐさま寮へ帰る。寝床の整理ができたら大急ぎで食堂へ。15分で食事終了。
8時40分から始まる授業に向けて制服に着替え、教科書を風呂敷に丁寧に入れ、またみんなで一列にならんで地下通路を通り教室へ。
午前中の授業が終わり食堂へ、15分で食事終了。
13時から17時15分まで地獄の訓練。鬼教官から愛のムチを受けながらヘロヘロになり終了。
また一列に並んで食堂へ、訓練で消耗したから飯がうまい!うますぎる、ホントに。そのあと1室6人の寮室へ。
洗濯、アイロンかけ、掃除、入浴、予習、復習、体力が余っているヤツらはトレーニングとそりゃあもう大忙し。とくに入浴は時間が決められていて、5分程度。なんせ600人もいるもんだから、シャワーの後ろに屈強な男どもが風呂桶片手にぞろぞろ並ぶ…それはそれで面白い光景でした。
訓練の思い出と言えば…
ボク、何するにも不器用でした。とにかくできない。体力はあるけど、超不器用、おまけに方言。そりゃあもう目立つ。
教官に訓練塔に登らされ、渋谷区民の皆さまひとりひとりに「三連梯子」の使い方を大声で説明するという特別講義を受けていました(笑)
それと集団行動が大の苦手。
昔からスケボー、スキー、ウェイトトレーニングとひたすら個人競技に打ち込んできたせいなのか、ボクの性格ですかね?みんなと一緒が嫌、自分中心…消防士にとって致命的です。
それでも体力がそこそこあったことと、同僚には迷惑かけられないという思いが芽生えたことでかなり頑張っていました。
消防署へ配属
11月、多摩地区のとある消防署に配属されました。その日から目まぐるしい消防署生活が始まりました。
ボクの消防署は、救急車1台、消防車2台、はしご車1台、指揮車1台という、わりとこじんまりした消防署でした。
それでも自分が勤務する日の2日に1回は火事とか事故とかに出動していました。
最初は、ホースを持って火事の家の中に入ったは良いものの、熱くて恐ろしくて先輩の背中に隠れてしまったり、防火水槽にはまりかけたり…もうなんか絵にかいたような「デキない」消防士でした。
だからいっつも小隊長には助けられていました。
けどね、そんなボクにもみんな温かく接してくれていました。これがホント心の救いでした。
いい職場でした。
消防士の仕事内容が嫌いじゃなかったので一生懸命だったんですよ。
夜中に寒い車庫で色々と技術を教えてもらいました。
レスキュー隊上がりの先輩に消防車のこと、ロープワーク、いろんな資器材の使い方…毎当番、ネホリハホリ聞くんです。
プライベートでもその先輩にはくっつき虫で、イイことワルイこと田舎モノのボクに教えてくれました。東京という底なしの大都会にボクは給料の大半を捧げました。(笑)
結局その消防署では3年間過ごしました。ホントに感謝感謝の消防生活でした。
地元消防の試験に受かってしまう
消防士として働き始めて3年目の9月に入った頃、久しぶりに実家へ帰りました。
その時たまたま、地元の隣街の消防職員採用試験があることを知りました。
これが転機でしたね。
「これは神様の思し召しだ」と直感的に思いました。 ただボクの身はあくまでも東京消防庁の消防職員。れっきとした地方公務員。
どうしたものか… まあ、深く考える余裕もなく次の日一旦東京の寮に戻りました。頭の中は「隣街の消防試験を受ける」ことだけしかありませんでしたから。
数日後の試験日、うまく、非番日、週休日と重なったのでまた地元へトンボ帰り。
次の日筆記試験。
できるできる!3年前の試験勉強の貯金がこの高機能なボクの脳みそに残っていたのです。
数日後、自宅に合格通知が届き2時試験の面接日が確定しました。
11月くらいかでしょうか?面接を受け、手ごたえ十分、だけどこれで不合格ならば、東京で一生を終える人生が確定するため、合格発表までは生きた心地がしませんでした。
11月末日、合格通知が自宅に届いたことを母親の連絡で知り、ボクは寮のベランダで世界一のガッツポーズをしたのでした。
そんなこんなであっという間に年が明けたんですが、ボクは憂鬱でした。
こんなにいい職場なのに、そろそろ「地元の消防が受かっている、4月からは地元に帰る」ってことをカミングアウトしなきゃならない。
ちょっと迷いました、ホントにこの選択肢でいいのか。けど自分は「地元で働きたい」という思いがホントに強かった。
次の日署員のみんなに無事報告。
署長には少し怒られましたが、ほとんどのみんなは「よかったなホントに、地元でも頑張れよ」って言ってくれました。
実は東京消防庁の職員さんは、生粋の東京都民は少なく、関東、中部、九州、東北出身者が大多数を占めていたんです。結構ボクの消防署にも地元に帰りたいベテラン署員さんがいっぱいいました。その人たちはもう東京で家庭を持っていたので現実的には地元に帰るのはムリだと言ってましたけど。
そんなこんなで、無事?退職。
春から2回目の消防人生がスタートするのでした。
地元消防へ転職
次の年の春、隣街での消防生活が始まりました。
隣街といっても昔から馴染みのある街。半分地元のようなものでした。
東京消防庁から転職したものの、消防学校には再び入校、半年間の消防学校生活が始まりました。
正直自分の中でも東京消防庁で3年働いた自負と現場経験もそれなりにしているので自信がありました。
けど、それが仇となりましたね。
そもそも東京消防庁はホースがねじ式、地方消防は町野式といいまして、ホースの種類が違うんです。ホースの太さも東京消防庁は50㎜ホースや40㎜ホースという細いホースを使っていましたが、地方消防では65㎜ホースという太くて重いヤツ。
ホースの収納の仕方にも違いがあって、東京消防庁は折り島田と言って、ジャバラ状にホースを折って収納するのに対して、地方消防では2重巻きホースと言って、巻いて収納するんですよ。
もうね、すべてが違いすぎるんです。
おまけに、消防団が行うポンプ操法なんか東京消防著ではやったことがなく、地方消防ではこれがベースになっているなんて知る由もなかったので、かなり苦労しました。
結局半年間はそれなりに鬼教官たちに怒られながら過ごすことになりました。
それでもなんとか半年間の消防学校生活を終えると、10月からとある消防署に配属されることになりました。
初日からみんなはボクのことを好奇な目で見るわ見るわ(笑)
ボクは言わば日本一の消防署組織から来た異端児。そりゃあどんなヤツなのか気になりますよね。
けどね、東京で消防士してたといっても、地方の消防ではやっぱり即戦力にはならないんですよ。戦術や風土が違いすぎるわけです。
「郷に入れば郷に従え」この言葉の意味が分かりました…
2年後、なぜか「特別救助隊」に任命。
体力はそれなりにあったものの、実は特別救助隊になりたいなんて微塵も思っちゃいないかったんです。
だって自分はそんな器じゃなかったから。
消防の中でもホント特別です、この部署は。ボクみたいな凡人ではお手上げ状態。東京消防庁みたいに選抜試験を受けて部署を選べるのではなく、自分の配属先が辞令一枚で決まる地方消防の現実。
ぶっちゃけ「東京消防庁上がり」という余計なブランドがボクに付いていたからとしか思えません。
特別救助隊になった初日、そこでは鬼上司たちがボクを待ち構えていました。
あんまり思い出したくもない日々。
自分が予想をしていた1000倍くらいデキない…結構落ち込みましたね。来る日も来る日も「できない自分」と戦いながらなんとかやっていました。
ようやく板についてきた3年目の冬でしょうか。
左膝の前十字靭帯を切るという大ケガをしました。
「これも運命か…」と思ったと同時に、特別救助隊の「クビ」を悟りました。
それからは色んな部署、色んな現場を経験し、プライベートでは結婚、出産と一大イベントがあっという間に過ぎ去っていきました。
ストレスと心療内科
10年目くらいの時かな、119癌通報を受け付ける「通信指令室センター」に配属されて3カ月後のある日、突然声が出なくなったんです。
その頃はホントに仕事もプライベートも大変な時期で毎日疲れていました。職場のこととか、人間関係のこととか、家庭のこととか…
毎日がいっぱいいっぱいでした。だから原因は自分でも何となく分かっていました…それでもしばらくは出勤していました。
そんな時、たった一人の信頼できる先輩から別室に呼ばれました。
「今は無理するな。オマエは頑張り屋さんだからな。今は休んだほうがイイ。身体を休めるのがオマエの仕事だ」って。
それを聞いた瞬間、押さえ込んでいたものがあふれ出しました。
泣きました。
涙が止まりませんでした。
自分がこんなにも弱い人間だなんて認めたくなかった。
まさか自分が…何で…そんな思いでした。
でも、「自分のことを認めてくれる先輩がいたこと」「自分と向き合う必要があったこと」
この時それにようやく気が付いた感じでした。
そして翌日休みを取り、駅前の心療内科に向かいました。
受付を済ますと、診察室に呼ばれやさしい男の先生が待っておられました。「どうされたんですか~」って。けど、声が出ない(笑)かすれた声で精一杯しゃべりました。
職場がどうで、仕事がどうで、上司がどうで、家庭がどうで…
「大変なご職業ですね。頑張られたんですね。少し心も身体も休ませましょう。今はそれがお仕事ですよ~」
その眼鏡の先生が天使に見えました。
1時間くらいの診察、というかひたすらボクの話しを聞いてくれました。
ただ、それだけでも楽になりました。
「今はしっかりと休んで、とにかく好きなことをして毎日を過ごしてください。それと、やっぱり治療はしなきゃいけないんです。だからお薬を飲んでくださいね~」
く、薬か~。これがうわさの精神安定剤というやつか…
ちょっとやっぱり躊躇しました。自分が病んでしまったことと、治療しなきゃ治らないということ、それとやっぱり薬を飲むっていうこと。
診断名は「うつ、社交不安障害、不安神経症」、薬は「レクサプロ」。
毎日寝る時には脳みそに色んな事がフラッシュバックしました。仕事のことはもちろん、今までの自分の人生のこと、自分という人間について…
それで気が付いたんです。
今まで違う自分を演じようとしていたんだって。
消防士はこうあるべきだ、とか、組織のためにはこれくらいして当たり前だ、とか、親は子供の鏡だから、とか…
本来ボクは「自分らしい生き方」を探し続けてきた人間。だからどこにいようと、そのスタンスは崩してはいけないんだと。
だからボクは組織の中心にいるべき人間ではなく生涯「プレーヤー」として消防生活を送った方が「ボクらしさ」を発揮できるということに気が付いたんです。
だから年齢に関係なく「若いヤツラには負けない」精神で、残りの消防人生を歩んでいこうと決めました。
現在
現在はというと、国が推進している「働き方改革」旋風により、有給休暇や特別休暇の取得推進、時間外勤務、残業の削減、人材育成の見直し…で消防組織は変わろうとしています。
ボクの方は現在もとある消防署で頑張っています…と書きたいところですが、実は今フリーランスとして生きています。ボクらしい人生です、ホントに。
ちょうど2年前に現在の仕事のパートナーと出会い、在宅ワークをしながら静かに暮らしています。
消防士を退職してからは、自由な時間が増えたので趣味でこのブログを始めることにしました。
っで、せっかくブログをやるのなら、ボクが今までの人生で経験してきたことを発信できたら面白いんじゃないかって。
自分に合った就職先がどこなのか分からずに悩んでいた事
ブラック企業に入ってしまって苦しんでいた事
転職に悩んでいた事
死に物狂いで消防士を目指した事
仕事のやり方や、職場の人間関係に悩んでいた事
心が病んで心療内科に通院した事
「自分の生き方」に気が付いた事
そんなことをあなたに聞いてもらえればすごくうれしいですし、少しでもあなたの人生のお役に立てればと思っています。
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